登場人物紹介【中国・四国・近畿地方篇】
陶晴賢 (1521-1555)  戦19 政8 魅6
陶氏は元々大内氏の一族であるが、主君・大内義隆の文治偏重政治に不満を抱く。
1551年に謀反をおこして義隆を死に追いやり、大内家の実権を握るが
1555年、毛利元就によって大軍の動かしづらい厳島に誘い出され、奇襲を受け敗れ去った。

陶長房 (?-1557?)  戦4 政6 魅8
陶晴賢の嫡男。
厳島合戦で父が敗れ自刃した後、若山城で抵抗を続けるが追い詰められて自刃した。討ち死にしたとも。

陶貞明 (?-1557?)  戦8 政2 魅7
陶晴賢の次男。
厳島合戦で父が敗れ自刃した後、若山城で抵抗を続けるが追い詰められて自刃した。

吉見正頼 (1513-1588)  戦6 政6 魅8
大内家家臣・吉見頼興の四男。
当初僧籍にあったが、兄2人をおいて当主に選ばれる。
陶晴賢による謀反の後、これに叛旗を翻し戦い、厳島合戦以降は毛利元就に従い活躍した。
ゲームにおいては史実どおりに陶に叛旗を翻すかが、毛利家の命運のカギを握る

青景隆著 (?-1556)  戦4 政8 魅2
大内家臣。
陶晴賢に自分と仲の悪かった文治派・相良武任を讒言して、謀反の原因を作ったとも言われる
毛利元就の防長進攻の際、これに抵抗し戦死した。

弘中隆兼 (?-1555)  戦12 政6 魅10
大内家臣。陶晴賢謀反の際はこれに従う。
厳島の合戦の際は、厳島を経由しない陸路を進言するが容れられなかった。
敗れた晴賢が自刃した後も、抵抗を続けるが最後には討ち死にしている。


毛利元就 (1497-1571)  戦20 政25 魅23
安芸・郡山城を本拠とする国人領主だったが、一代で一躍中国地方屈指の戦国大名にのし上がった人物。
優れた政治手腕で安芸一国を統一した後、厳島合戦で陶晴賢を破って旧大内領を手中に収め
1566年には尼子義久を月山富田城に降す。
九州にも進出を図り大友氏と戦うが、これは果たせず1571年、75歳にて没した。

吉川元春 (1530-1586)  戦19 政8 魅12
毛利元就の次男。吉川家を勢力下に加えるために養子に入る。
優れた武将であり、山陰方面の攻略に活躍。
また羽柴秀吉との対陣の際に敷いた布陣の逸話は、囲碁の手の名称に取り入れられたりしている。
秀吉の九州攻めに加わって出陣したが、その最中に陣没。

小早川隆景 (1533-1597)  戦16 政18 魅16
毛利元就の三男。小早川家を勢力下に加えるために養子に入る。
優れた武将であり、山陽方面の攻略と水軍戦に活躍。
元就死後は、元春とともにまだ若い輝元をよく補佐し支えた
豊臣政権下では五大老に任じられるなど重用された。

吉川経安 (?-1574)  戦10 政12 魅8
吉川家の一族。鳥取城主・吉川経家の父といったほうがわかり易いか。
物不言城主の時、福屋隆兼が毛利氏に謀反を起こし攻められるが、よく戦い撃退した。

清水宗治 (?-1582)  戦12 政10 魅14
備中の土豪であったが、仕えていた国人領主の死後、後継者として高松城主となる。
毛利家に属したのちは一貫して毛利家に忠誠を尽くし、秀吉の高松城水攻めの際も断固として抵抗する。
最後には講和の条件として自刃することになるが、忠義の武人として後世に名を残した。
浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の苔に残して


尼子晴久 (1514-1560?)  戦6 政6 魅13
出雲の守護大名。1537年に父・経久より家督を譲られ、同年、石見銀山を奪取するなど、各地に軍事活動を行なう。
安芸では毛利元就の前に一敗地にまみれたが、大内義隆の出雲侵攻を撃破して勢力を拡大した。
しかし1554年、尼子一門でも勇猛を誇る、新宮党の尼子国久一門を謀反の疑いで謀殺してしまい、
結果として尼子氏の軍事力低下を招いた。

山中鹿之介 (1545-1578)  戦15 政10 魅7
正式には山中幸盛。尼子氏の一族であり、若い頃から武勇の士として名を馳せた。
1566年の尼子氏滅亡後、京で僧となっていた新宮党・尼子誠久の末子・勝久とめぐり合い、再興の兵を挙げる。
一時は尼子家の旧臣を糾合して月山冨田城に迫る勢いを見せるも失敗。信長を頼っておこした再度の挙兵でも
敗れて捕らえられ、護送の途中、備中高梁川の阿井の渡しで斬られた。

牛尾久信 (?-1586)  戦9 政1 魅9
尼子家重臣・牛尾幸清の子。
福屋隆兼が毛利氏に叛いた際、これを助けて吉川経家の物不言城を攻めるが失敗している。
尼子方の武将が次々と毛利氏に降る中、父と共に最後まで尼子氏に従い戦うが
結局、一族とともに毛利氏に降った。

亀井茲矩 (1557-1612)  戦10 政16 魅8
尼子家臣・湯長綱の子。亀井秀綱が戦死したのち、跡継ぎのなかった亀井家の名跡を継ぐ。
山中鹿之介と共に尼子家再興に尽力するが、尼子家滅亡の際はまだ若かったため、鹿之介に秀吉の下へ逃された。
秀吉の配下で因幡鹿野城主となり活躍。関ヶ原の合戦では東軍について本領安堵され3万8千石
内政に手腕を発揮し、領内の開発を進めた。秀吉に琉球を所望した逸話が有名。

南条元続 (?-1591)  戦5 政3 魅8
伯耆の国人。羽衣石(うえし)城主。
吉川元春麾下として毛利氏に属し、1575年に父の死により家督を継ぐが、
やがて毛利氏を離れて織田信長の側につき、羽柴秀吉の因幡攻略に加わる。
秀吉の島津・北条氏攻めにも従軍したが、かねてより患っていた中風がもとで死去。


黒田官兵衛 (1546-1604)  戦17 政19 魅19
黒田孝高。入道後は如水と号する。播磨の国人・小寺(黒田)職隆の嫡男。父と共に小寺政職に仕えた。
政職が信長に属した頃から、播磨平定の任を受けた秀吉の元に属するようになり参謀として活躍。
しかし、その能力がかえって警戒の対象となり、与えられた所領は豊前中津12万石に留まった。
関ヶ原の合戦に際し、天下への野望を膨らませるが、合戦が1日で終わったため大いに落胆したとも。

赤松晴政 (1513-1565)  戦4 政2 魅10
播磨の守護大名赤松氏当主。
8歳の時に家督を継ぐが、父・義村が守護代・浦上村宗に殺害され傀儡となる。
1531年に細川晴元と結んで村宗を戦死させるが、国内が混乱して尼子晴久の播磨侵攻を招き、国を逐われる結果となった。
その後復帰を果たすものの嫡子・義祐と対立し、龍野城の従兄・赤松政秀の元へ身を寄せた。1565年、同地にて没。

浦上宗景 (?-?)  戦10 政4 魅4
赤松氏の守護代であった浦上村宗の次男。
1531年に父が死ぬと、兄・政宗が家督を継ぐが兄弟間は不和であり、家臣たちの中にも宗景に従う者が多かった。
その後、赤松氏・尼子氏らとの抗争を経て、備前と播磨・美作の一部にも勢力を拡げた。
織田信長に属した事から、宇喜多・毛利氏と争うようになり、1577年に本拠地・天神山城を落とされ没落した。

宇喜多直家 (1529-1581?)  戦14 政19 魅16
赤松氏の守護代であった備前浦上氏の被官であったが、次第に頭角を現し、やがて主家を凌ぐまでになる。
1566年、美作に出陣中の三村家親を鉄砲を使用して暗殺。その後も暗殺や謀略を駆使して勢力を拡大していった。
浦上氏が織田信長に属したのに対し、毛利氏と結んでこれに対抗、遂に浦上氏を備前から駆逐するに至る。
1579年に羽柴秀吉の誘降に応じ、以後織田側に属すが、1581年に死去。1582年死亡説もある。


三村家親 (1517-1566)  戦11 政8 魅6
備中の国人。毛利氏に属して勢力を拡大。
1560年には備中松山城に庄高資を降して、備中をほぼ統一した。
その後、備前・美作等に積極的に侵攻。宇喜多直家に対して優勢に戦いを進めるが
1566年、備前興善寺に在陣中、宇喜多直家の放った刺客に鉄砲で狙撃され暗殺された。


河野海岸 (1500?-1572)  戦6 政6 魅8
河野家当主。通直。海岸希清。
大内氏との合戦では娘婿である来島村上通康の活躍もあり、これを防ぐ。
1541年、通康を後嗣にしようとしたが、一族や重臣の反対にあい合戦となったため断念。
分家である、予州家の河野通存の子・通政が後を継いだ。

河野通存 (?-?)  戦4 政4 魅10
河野家の支流である予州河野家の当主。
河野本家の継承問題の争いの際、実子の通政に宗家を継がせる。
通政の死後は、次男・通宣が宗家に入っている。

石川通清 (?-1584)  戦4 政2 魅2
河野家の一族。元来伊予は河野家が一国全て支配していたが
戦国期になり内紛などで支配のタガが弛むと、一族・重臣の中から半ば独立するような者が現れるようになる。
石川通清は東伊予・高峠城にあって三好家に通じ、河野氏と戦うが敗北。
のちに長曽我部元親に従う。

忽那通著 (?-1579)  戦10 政2 魅8
伊予・忽那島を本拠とする水軍の将で河野氏に仕えた。
大内氏や大友氏との水軍戦で活躍している。
1579年、長曾我部氏に通じた大野直之討伐軍に加わり戦死

宇都宮豊綱 (1519-1585)  戦10 政4 魅10
伊予宇都宮氏当主。
一条氏や河野氏・大友氏などと結んで、宿敵・西園寺氏に対抗。
西園寺公高を討ち取るなど、一時優勢になるが、河野氏が西園寺氏と結ぶようになると状況は一変。
1568年、河野氏の援軍として派遣された毛利氏の軍勢に攻められ降伏。豊綱は備後に幽閉され、1585年に同地で没した。


長曽我部国親 (1504-1560)  戦10 政12 魅13
幼い頃に父・兼序が本山氏らに岡豊城を落とされて討ち死にしたため
土佐中村の一條氏の庇護を受け成長する。
やがて一條氏の支援のもと、岡豊城に復帰すると、吉田孝頼を後見におき
周辺勢力を束ねて長曽我部氏の勢力を回復するが、1560年5月、本山氏と対陣中に病を発し翌月に死去。

長曽我部元親 (1539-1599)  戦15 政17 魅11
22歳の初陣の時まで、合戦はおろか槍の使い方すら知らず、家臣から「姫若子」と揶揄されていたが
その初陣で抜群の働きと将器を見せ、一躍「土佐の出来人」と仰がれるようになる。
父の急死後、15年を費やして土佐を統一すると、三好氏や河野氏などを打ち破って1585年に四国を平定するが
羽柴秀吉の四国攻めにより降伏。土佐一国を安堵された。

吉田孝頼 (?-?)  戦6 政12 魅4
周孝。土佐江村郷吉田城主。
長曽我部国親が岡豊城に復帰した際、後見として迎えられて献策、その勢力拡大に貢献した。

福留親政 (?-1577)  戦17 政4 魅8
長曽我部元親の重臣。武勇・知略に優れ、
安芸国虎が岡豊城に攻め寄せて来た際は寡兵ながら活躍を見せ、「福留の荒切り」として勇名を馳せた。
その後も度々戦功を挙げ、感状を受けること21回に及ぶが。1577年、伊予にて戦死。

波川清宗 (?-1580)  戦13 政1 魅2
長曽我部家臣。妻は元親の妹。
土佐統一戦において戦功をあげ、一条氏滅亡後、土佐山路城主となるが失政があり左遷。
これを不満として謀反をおこそうとするが事前に露見。
阿波に逃れ香曽我部親泰を頼るが、元親の命令で自刃させられた。


一条兼定 (1543-1585)  戦1 政1 魅1
父・房基の自殺により7歳にて一条氏の家督を継ぐ。洗礼名ドン・パウロ。
長曽我部氏の西進に抗しきれず、重臣らにより妻の実家である豊後大友氏のもとへ追放された。
1575年、旧領回復を目指して伊予に上陸。一旦は中村を取り戻したものの
長曽我部元親の援軍が到着すると、敗れて逃亡。以後隠棲し1585年に死去した。

本山清茂 (1508-1555)  戦13 政10 魅8
茂宗。梅慶。本山氏は土佐七守護と呼ばれた有力領主の一つ。
近隣の諸勢力を束ねて勢力を拡大。山間部の本山城から平野部の朝倉城に本拠を移して
一条氏とも戦うなど、土佐中央部へも支配地を拡げて、本山氏の全盛期をもたらした。

本山安政 (1526-1564)  戦10 政6 魅9
茂辰。本山清茂の子。妻は長曽我部国親の娘。1555年、父・清茂の死により家督を継ぐ。
蓮池城を一条氏から奪うなど、土佐中央部を制圧し勢力を振るうが
やがて東側から長曽我部国親が台頭し、本格的な抗争になると徐々に押され始め
1563年、朝倉城を放棄して山間部へ撤退。翌年、長曽我部元親との本山城攻防戦のさなか世を去った。

安芸国虎 (?-1569)  戦15 政8 魅6
安芸城を本拠に土佐東部に勢力を振るった豪族。
永禄年間に入った頃から長曽我部氏と境界をめぐって対立するようになり、やがて全面的な抗争に発展。
1569年、長曽我部氏の大規模な侵攻に敗れて安芸城は落城。
妻子を逃がした後、配下の将兵の命乞いをして、菩提寺である浄貞寺にて切腹した


香川信景 (?-?)  戦6 政12 魅8
讃岐の豪族。之景。元景。三好氏に属していたが、織田信長が畿内に勢力を拡大すると、信長につく。
長曽我部元親が讃岐に攻め込んでくると、元親の次男・親和を養子とすることで降伏。
羽床・香西氏ら有力豪族の誘降に活躍し、元親の讃岐平定に貢献した。
元親が羽柴秀吉の四国攻めに敗れて讃岐を失うと、養子・親和とともに土佐に退去した。

市原兼隆 (?-1579)  戦6 政5 魅11
阿波の国人。1579年に阿波岩倉城での長曽我部元親と三好氏が戦った
岩倉合戦(脇城外の合戦)に三好方として参戦。敗走中に自刃した。

細川晴元 (1514-1563)  戦10 政7 魅7
細川澄元の子。三好元長や丹波の波多野殖通の支援を受けて挙兵し
父を阿波に追放した管領・細川高国を敗死させ、管領の座に就き勢力を振るった。
しかし1543年、高国の養子・氏綱が挙兵すると、家臣であった三好長慶により近江に追われる事となる。
1561年に六角氏の仲介で長慶と和睦し、摂津にて剃髪して隠居。2年後に死去した。

細川氏綱 (?-1563)  戦8 政4 魅8
細川尹賢の子で、細川高国の養子となり、将軍・足利義晴の支持を受け細川晴元と戦う。
三好長慶により晴元が追放されると管領となるが、傀儡でしかなかった。
1563年、山城淀城にて死去。

三好長慶 (1522-1564)  戦9 政14 魅11 顔グラフィックはSFC版『戦国の覇者』のものです
三好元長の子。父が一向一揆に攻められて敗死したため、10歳で家督を継ぐ。
やがて管領・細川晴元のもとで頭角を現すが、次第に不和になり晴元を追放。
その後、敵対していた将軍・足利義輝と講和して京に迎え入れ、幕府の実権を握って勢力を振るったが
次第に実権を家宰・松永久秀に奪われていった。1564年、前年に急死した嫡子・義興の後を追うように死去。

三好義賢 (1527-1562)  戦13 政8 魅7 顔グラフィックはSFC版『戦国の覇者』のものです
三好元長の子で長慶の弟。之康、実休。
阿波の細川持隆に仕え、兄・長慶の求めにも応じて畿内にて戦う。
1553年に主君・持隆を殺害して、その遺児・真之を擁立。実権を握り、阿波を三好家の分国とした。
その後、河内の畠山氏と争うが、1562年、河内久米田の合戦において流れ弾に当たり討ち死。

安宅冬康 (1528-1564)  戦10 政6 魅11
三好元長の子で長慶の弟。淡路の安宅家に養子に入る。
安宅水軍を掌握したことで、三好家の阿波─河内間の安全な通行を確保でき、三好家の勢力拡大に繋がった。
兄・長慶をよく補佐して人望も厚かったが、1564年に河内・飯盛山城にて死去。
病死とも、松永久秀の讒言を信じた長慶による誅殺ともいわれる。

十河一存 (?-1561)  戦15 政5 魅13
三好元長の子で長慶の弟。讃岐十河家に養子に入った。
「鬼十河」と恐れられる勇猛な武将であり、兄・長慶を助けて畿内での合戦に多く参加している。
有馬温泉に湯治した際、有馬権現へ権現が嫌うという葦毛の馬に乗り参拝。
その途中落馬してこれが原因で死亡した。

三好康長 (?-?)  戦8 政5 魅12
三好元長の弟、長秀の子。長慶の叔父。笑岩。長慶のもとで各地に歴戦。
長慶の死後は三好三人衆を支援して、松永久秀や織田信長と戦う。
1575年に信長に降伏するが、本願寺や三好一族への影響力を買われて重用された。
織田信孝の四国攻めの先鞭をつけるため、阿波での調略等にあたっていたが、本能寺の変により全てが水泡に帰した。

三好長逸 (1515?-?)  戦11 政12 魅9
三好一門で三好三人衆の一人。長慶に従い各地で戦う。
長慶死後、三好義継を後見して松永久秀らと結び、足利義輝殺害にも加担している。
やがて三好義継・松永久秀と決裂してこれと争うが、織田信長が上洛してくると四国へと逃れた。
その後は本願寺と結んで、摂津・河内などで反信長方として戦っていたが、1573年に敗れて以後不明。討ち死にしたか。

池田勝正 (?-?)  戦13 政5 魅10
摂津の国人。三好長慶に属し、その死後は三好三人衆とともに松永久秀と戦った。
上洛して来た織田信長に対し抵抗したが、やがて降伏。摂津三守護の一人として遇されたが
重臣・荒木村重らが勝正の弟・知正を擁しておこした反乱により城を逐われた。

高山重友 (1553?-1615)  戦12 政10 魅6
摂津の国人。右近。長房。1564年に受洗、洗礼名はドン=ジュスト。
初め和田惟政、ついで荒木村重に属して高槻城主。村重の謀反の際、宣教師の説得により信長に降った。
その後、秀吉に仕え各地に従軍したが、命令による棄教を拒否して改易。縁故を頼り各地の大名のもとを放浪したが
1614年にキリシタン禁令によりルソンに追放され、翌年死去した。

赤井直正 (?-1578)  戦15 政7 魅7
丹波の国人領主。荻野氏に養子に入るが、養父を殺害し黒井城主になる。
兄の赤井家清の死後、その幼子を後見して実権を握り、1565年には守護代内藤氏を倒して丹波に勢力を振るった。
信長の丹波攻略に対して、波多野氏とともに国人・土豪達の中心として抵抗をするが、次第に旗色は悪くなり
1578年、降伏勧告の使者として来た脇坂安治に家宝である貂の皮を形見に譲ったのち病没。城もその後 落城した


本願寺顕如 (1543-1592)  戦2 政18 魅17
本願寺11世法主。
各地の一向宗勢力の中心人物として、摂津石山本願寺を拠点に勢力を振るった。
織田信長台頭後は、反信長勢力の中心として各地の一向宗門徒に戦いを呼びかけるが
次第に旗色は悪くなり。1580年、信長の意を受けた正親町天皇の調停により石山を退去した。

足利義輝 (1536-1565)  戦11 政12 魅13
足利幕府・第13代将軍。三好長慶と対立し各地を点々とする生活を送っていたが、
和解後は積極的に諸大名間の調停をはかるなど将軍権威の回復に努める。
しかしこれを嫌った松永久秀や三好義継らは足利義栄を擁立。
御所を急襲された義輝は自ら抜刀し奮戦するも討たれた。


松永久秀 (?-1577)  戦14 政19 魅8
三好長慶の家臣であったが徐々に力をつけ、長慶の死後、三好家の実権を握る。
信長が上洛を果たした1568年、その軍門に降り大和一国の切り取りを許されるが
1573年、将軍足利義昭の挙兵に応じて、信長に反抗。いったんは降伏したが1577年再び謀反を起こし
最期は信長の欲しがっていた平蜘蛛の釜もろとも天守閣で自爆したという。

松永久通 (?-1577)  戦8 政4 魅10
松永久秀の子。一貫して父と共に行動しており、その補佐に徹している。
久秀の2度目の謀反の際、共に死亡したとも、落ち延びる際討たれたともいわれる。


島左近 (?-1600)  戦18 政5 魅15
島勝猛。筒井家に仕えていたが、筒井定次と不和になり浪人。のちに石田三成に仕える。
勇猛をもって知られ、関ヶ原の合戦では東軍の黒田・細川隊らを相手に奮戦し、心胆を寒からしめるが
銃撃により負傷し、乱戦の中討ち死にしたとされる。

越智家増 (?-1577)  戦3 政10 魅7
大和南部に勢力を持っていた国人。
1571年、当主であった甥の越智家高が暗殺された後 家督を継ぐが、暗殺は家増の手によるものとみられている。
家増は1577年病死し、布施氏から家秀が入り名跡を継ぐが1581年暗殺され越智氏は滅亡した。

津田正時 (?-?)  戦4 政4 魅8
河内の国人領主。はじめ三好氏に属したが、松永久秀に寝返ったため城を落とされる。
のち返り咲くも、織田信長の河内攻めの際に落城。その後許されて三度返り咲くが
本能寺の変に際し、明智光秀に味方して山崎の合戦で敗れ浪人。まもなく死んだという。


遊佐長教 (1491?-1551)  戦11 政2 魅4
河内畠山家重臣で河内の守護代。
同じく畠山家臣の木沢長政と謀り、主君である畠山殖長を追放。
殖長の弟・長経・政国らを相次いで擁立して傀儡とし、実権を握ったが、1551年に暗殺された。
ゲームでは1555年に畠山氏重臣として登場するが、息子・信教(1524〜1573)と混同していると思われる。

土橋守重 (?-1582?)  戦4 政2 魅4
雑賀衆では鈴木家と並ぶ有力国人領主。
織田信長の本願寺攻めの際は鈴木家とともに本願寺を支援したが
本願寺退去後の1582年、信長との結びつきを強める雑賀孫一と対立して殺害された。


蒲生氏郷 (1556-1595)  戦16 政10 魅13
蒲生賢秀の子。父が信長に帰順したのに伴い人質として送られるが、その資質を気に入られ信長の娘を妻にもらう。
以後、順調に武功を重ね。本能寺の変に際しては、父と共に信長の妻子らを日野へ迎え入れ保護した。
秀吉政権下で最終的に会津黒川92万石の大名にまで出世したが、なにぶん都から遠く離れた僻地であり
氏郷は「これで天下を望む事はできなくなった」と落涙したという。


浅井長政 (1545-1573)  戦17 政16 魅15
北近江の国人大名、浅井久政の子。父・久政は戦に疎く、六角家に臣従するが如き姿勢を見せたため
長政は反六角派の家臣によって擁立され当主になる。
織田信長の妹お市を妻に娶り同盟を結ぶが、信長が同盟締結時の約定を破り、事前の相談なく朝倉氏を攻めたため
信長と敵対。姉川の合戦で敗れた長政は、3年後・孤立無援の中、小谷城落城とともに腹を切った。